オレンジ計画

アシスト社長かく語りき

Oracle DBなんかの販売・サポートで一応名が売れている会社なんですが、この会社の代表取締役ビル・トッテンという米国人のオヤジ、面白いですねー。
このページ凄いっす。No.1から読んでってください。
http://www.ashisuto.co.jp/corporate/rinen/totten/ow.php
以下の記述はアシスト誌の中へ寄稿されたものの一節です。

それは日本が東京裁判において侵略国として裁かれ、戦争放棄をうたった憲法を与えられたことによると思いますが、その日本を裁いた米国が、実は日清戦争が終わってからわずか2年もたたない1897年に、日本を仮想敵国とした対日戦略プログラム「オレンジ計画」を策定していたことをご存知でしょうか。米国と日本は歴史的には友好関係にあっても、いつか他国の支援なしに二国間戦争が勃発する、というのがこのオレンジ計画の地政学的前提条件でした。そして開戦の根本理由が極東の土地、人資源の支配をもくろむ日本の領土拡大政策であること。日本が国益を賭したこの戦争に国力を総動員するであろうこと。しかし地理的な要因から海上封鎖を強めれば日本の補給路は遮断され米国の戦艦が勝ちを制するであろうこと。最後は空爆によって日本本土の生産施設を破壊し、沖縄を占領し、日本を完全に孤立させて降伏を余儀なくさせる、といった驚くべき先見性を持った計画だったのです。もちろん、それが二国間にとどまらず世界戦争になったことなどいくつかの相違点はあったものの、対日戦略という観点からはほぼ完璧なまでに構想通り太平洋戦争は展開しました。この戦略方針が1906年から1914年という時期に定められていたという事実は、一体何を示しているのでしょうか。原題『War Plan Orange、The U.S. Strategy to Defeat Japan 1897-1945:Edward S. Miller』(1991年The United States Naval Institute)という本は、そのオレンジ計画が定期的に改訂され、実行に移されるまでを克明に記しています。日本語版は新潮社より1994年に出版されましたが、残念ながら現在絶版となっています。ご興味がおありの方は図書館で探されるとよいと思います。

ここの記述されている対日戦略プログラム「オレンジ計画」ってのが気になりますね。
で、googleで検索して見ると色々出てくる訳ですが

とか。

訳本は出てるけど

1番目のfukkan.comの様子では、トッテン社長が言及しているEdward S. Millerという人の本は翻訳されて出版されているのだけど、絶版になっているようですね。
オレンジ計画―アメリカの対日侵攻50年戦略

要は、

  1. 太平洋戦争が勃発したのは、「ABCD包囲網」とか、「ハル・ノート」が直接的な引き金になってはいるけれど、実はそれ以前から、日清戦争直後から日本は、太平洋の覇権と中国を市場と狙う米国の敵国となっていた訳ですな。
  2. 実に緻密に練られた戦略で、日本の支配下にある島々、およびフィリピン諸島にある総ての港の戦略的位置づけが明確化され、沖縄での戦闘や日本の都市への無差別空襲など、全て織り込み済みだった。

って事ですな。
機会があれば実物を読んで見たいもんです。
日露戦争終戦当時の米国大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約を仲介した事で知られていますが、

日本の戦歴「日露戦争」によれば、

例えばルーズベルト明治37年3月にスプリング・ライスに宛てた手紙の中で、もし日本が戦争に勝てば、我々はスラブ人だけでなく、この強大な新興勢力をも重視しなければならないといい、さらに6月には、「もし日本が戦争に勝てば、それは将来における日米の闘争を意味するものであることもよく承知している」と延べ、その後の歴史が証明しているように日米の将来を的確に予測していた。

なんて事を言ってるんですね。
私なぞは、英米が日本に脅威を覚え始めたのはもっと後の事かと考えるのですが、実際の米国の対処は遥か以前に始まっていると言うことに驚かされます。
米国に太平洋戦争へのレールを敷かれたとまでは言わないし、これのみが開戦の理由ではありえないのですが、真珠湾攻撃が米国によって「慎重に仕掛けられた罠」であるという見方とともに知っておくべき事実ではないかと思うのです。

フィリピンの奪取

上のリンクから、高山正之氏(産経新聞編集委員)の寄稿が面白かった。米国の太平洋戦略の一部が紹介されている。

例えば、数年の間隔で起きた日露戦争米西戦争だ。二つの戦争の動機は同じだった。日露戦争(1904年)は、日本の脇腹に位置する朝鮮半島をロシアが取ろうとした。そんなところに掠奪と強姦の代名詞みたいな連中が来た日には、日本の安全など消し飛んでしまう。だから日本は「わが国の安全保障のために」宣戦布告して戦った。

一八九八年の米西戦争も同じように、北米大陸の脇腹にあるスペイン領キューバが米国の不安材料だった。「いつか敵対国の手にわたったら」という危惧は、実際に六十年後、あのキューバ危機で現実のものになったが、米国はそれを先読みして戦端を切った。ただ、自国の安全保障という直截な言い方はしなかった。「植民地支配にあえぐ人々の自立のために」、米市民が立ち上がった、と。

このとき海軍次官だったのがセオドア・ルーズベルトだった。彼は友人のアルフレッド・マハンの言葉を入れ、太平洋戦略の基地としてスペイン領フィリピンの奪取作戦も取り込んだ。そしてスペインに抵抗していたアギナルド将軍に、独立支援を餌にマニラ攻略の共同戦線を張った。

米西戦争はスペインがさっさと降伏して翌一八九九年には終わったが、ロサンゼルスにあるこの戦争記念碑には「一九〇二年」とある。これは、アメリカに裏切られて抵抗するアギナルド将軍とその一派を、米軍が完全に掃討し終わった年を意味している。

米上院へのレポートでは、サマール島で三十八人の米兵が殺された報復に、この島とレイテ島の住民二万余人が虐殺されるなど、二十万人が殺された。

この中には拷問死も多く、アギナルド・シンパとされた市民が逮捕され、「ウォーター・キュア(水療法)」の拷問を受けたと報告書は伝える。これはあの魔女裁判と同じに数ガロンの水を飲ませ、それでも白状しないと「膨れた腹の上に尋問の米兵が飛びおりる。彼らは口から数フィートの水を吹き上げ、多くは内臓損傷で死んだ。」(同報告書)

そうやって平定したことを記念する前述の碑には、「植民地支配にあえぐ人々に自由の手を差し伸べた米軍兵士たちに」と記す。

よく言うぜ、と思う。

日中間の紛争は欧米の蒋介石支援という形で泥沼化し、そして真珠湾、東南アジアへの戦火拡大へと進むが、これもルーズベルトの戦略の最終ステージだとみればよい。

日本の戦争責任とは何か、を考える際のもう一つの照明ではないだろうか。